背景は当時、ロンドンで本には著作権がなく書籍業が好き勝手に書店(書店の裏で印刷業を行っていた)の本をコピーして勝手に売られていて、それを防ぐために書店が議会に圧力をかけてコピー・ライトというものが作られた。コピー・ライトは著作権であるが、コピーしていい権利を指す。持っているのは著者だ。
著作権法の端がけとなったのはイギリスで、1710年のアン法であり、永続所有権の否定、パブリックドメインの設定が為された。思考におけるコピー・ライトは設定されなかった。そのまま文章を写し書きするのはダメであり、考え自体は盗んでいいとされた。
「何でその文章を書いたのだろうか?」と自問しどう捉えたところで結局は他者に「反応されたい」という答えしか返ってこなかった。使い方次第で有用にもなるんだろうけれど、ものすごいくだらない文章を書いた時に、この捉え方を脳の片隅に置いているからSNSを使って「自分の日常」や「自分の毒にも薬にもならない考えの切れ端」を垂れ流している自分がとんでもなくキモいと思える。
さて自分のSNSの使い方がいかにクソでそれを理解していながらそんな場所に参加している自分が最高にクソであることを自覚すると、SNSへの依存を下げようとするフェイズに移行するが、既に依存症と呼べるレベルで依存している脳の報酬系が暴れ出し、またSNSぐらいしか人間と付き合えないという依存先の少なさか、寂しさを埋める方法がそれだけという理由もある。そういう訳で寂しくなってまたやり直す。それを繰り返す。
そんな自分は実に哀れな姿をしていると思う。
gitの使い方を復習したしvimの使い方を復習したが色々わからない項目が気になり調べるのに時間が溶けた。取り組む項目を事前に決めて優先順位を付け、取り組んだはいいが項目ごとにさらに細かく時間配分を意識しないとダメだという事がわかった。
さて、パソコンを触る時間よりドキュメントを読む時間と書く時間の方が長いのかもしれないと思った。読んだだけだとわかったフリができてしまう。自分用のドキュメントを用意できて一通りの理解ができたと言えるのかもしれない。その後は元と比較して考える。