落語は、それを言ったら、性差別も酷いし、権威主義も酷いけど、私はそれはそれということで楽しむけどなぁ(少なくとも性差別については私もガチで差別される側になる訳だけど)。

そんなことを言ってしまったら、古典は何れもダメってことになっちまわないか?

その根底に横たわる人間存在のおかしさや悲しみや醜さや…みたいなものは、普遍なわけで、そのエッセンスを楽しむものなんじゃないのか。

粗忽長屋だって、らくだだって、火焔太鼓だって、みんな、そこに自分の中の同じもの、残酷なもの、ずるいもの、卑しいもの、醜いもの、権威が好きなところ、臆病なところ、…みたいなものと共鳴するから面白い。頭で聞いちゃダメなんだよ、あれはハートで、自分の心の中の世界と共振させて楽しむんだ。

自分の中のそういうダメなところを排除してクリーンに保とうとする人こそ、私は怖いと思う。

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Discussion

例えば、精神分析的な心理療法では、対象にするのは「無意識」なのだけど、無意識の世界は、人間の心に道理とか、善悪とか、理性とか、時間とか、がまだ生まれる以前の心なので、時にとても残酷だったり、理屈が通らなかったり、とても醜かったりする心が剥き出しになる。

一番わかりやすい例で言えば、精神分析は(夜見る)夢をとても大切に考えるのだけど、夢ってのは、理性で制御できないし、普段起きている時はとても穏やかで優しい人が見る夢がとても残酷だったり憎しみに満ち満ちていたり、暴力で溢れかえってたり変態チックだったりとか普通にあるし、誰でも知っているように、夢は大抵、不条理で、いきなり場面が変わったり、人が入れ替わったりするし、しっちゃかめっちゃかな訳だけど、

人の心の一番奥底にはそういう世界が蠢いているし、そんなもの、理性ではどうにもならないし、そういうオドロオドロシイ世界を恐れて何とか制御しようとする(意識で無意識を抑えつけようとする)人は、寧ろ(夜見る)夢を見れないようになって、それって、発狂に繋がるんですよ。

そんなわけで、夢は無意識への入り口にしやすい訳だけど、精神分析は夢だけではなく「自由連想法」を使って、起きている間もその無意識的なものをなるべくキャッチして自由に語って貰うという手法を使う。