ここからは、マーク・ブライス『インフレーション』で展開されている**個々の論者・理論のロジック(主張・根拠・限界)**を整理しながら、ブライスがどう検証・評価しているかを「一つひとつ」分解して説明します。
かなり丁寧にいきますので、ゆっくり読めるように構成します。
🧭 全体構図
ブライスの本は、単に「自分の説」を出す前に、最近のインフレをどう説明するかという複数の「競合する仮説」を一つずつ検討する構成になっています。
主な登場人物(=代表的な論者)は次のような感じです:
論者・立場主な説明キーワードローレンス・サマーズ過剰需要(財政出動のしすぎ)説“too much money chasing too few goods”アラン・ブラインダー供給ショック説パンデミック供給制約・エネルギー価格上昇ジェイソン・ファーマンら労働市場の過熱説高賃金→価格転嫁企業の「グリードフレーション」論(Isabella Weber など)利潤マークアップの上昇説企業の価格決定力・寡占化現代貨幣理論(MMT)周辺財政余剰/貨幣構造論通貨主権国家では財政制約より供給制約が決定的ブライス本人分配闘争・政治経済説「誰が価格を決めるのか」「誰が負担するのか」
🧩 1. サマーズの「過剰需要」説
💡 論理構成
コロナ禍で政府が大規模な財政支出を行った(米国ではGDP比25%超の規模)。
その資金が家計に流れ、貯蓄率が急上昇。
パンデミック明けに需要が爆発的に回復したが、供給が追いつかずインフレに。
よって、インフレの原因は「過剰な財政出動」。
📊 ブライスの検証
データで見ると、供給制約(サプライチェーン寸断、港湾混乱、半導体不足)がインフレ率の過半を説明する。
財政支出が多かった国でも、インフレ率に差が大きい(例:米国と日本)。
実証的には因果が弱い:支出が多いからインフレ、とはならない。
⚖️ ブライスの評価
短期的には一部当たっている(需要回復による初期的な価格上昇)。
しかし「構造的インフレ」を説明できない。
問題は需要の過多ではなく、供給の脆弱性+価格決定権の偏り。
🧩 2. ブラインダーの「サプライショック」説
💡 論理構成
インフレは主に供給ショックによって生じた。
パンデミックによる供給網断絶
エネルギー価格の高騰
ウクライナ戦争
供給ショックは一時的なので、時間が経てば収束する。
よって、中央銀行は過剰に引き締める必要はない。
📊 ブライスの検証
この説明は短期的な物価変動(2021〜2022年)をよく説明する。
しかし2023年以降もコアインフレが粘着的だった事実に対応できない。
「ショック」だけでは、なぜ一部の企業が価格を維持できたのかが説明できない。
⚖️ ブライスの評価
有効だが「半分の真実」。
ショックはきっかけだが、それが「価格構造の再編」につながった点を見逃している。
**ショックを利用した“価格上乗せ”行動(price opportunism)**が鍵だと指摘。
🧩 3. グリードフレーション(企業の強欲インフレ)説
💡 論理構成
パンデミックや戦争を口実に、企業が必要以上に価格を上げた。
コスト上昇以上に価格を引き上げた結果、利益率が急上昇。
企業集中度が高い市場では、競争がなく価格が下がらない。
よって、インフレは「企業の利潤拡大戦略」の結果。
📊 ブライスの検証
利益率・マークアップデータを分析すると、2021〜23年に米国・EUで史上最高水準。
しかし「全産業」ではなく、特定の寡占セクター(エネルギー・食品・輸送・建設)が中心。
これは偶発的な“機会利用型”の価格設定(opportunistic pricing)と整合的。
⚖️ ブライスの評価
非常に重要な視点。
ただし「強欲」というモラル批判に還元すると誤解を生む。
正確には「市場構造と価格決定権の非対称性」が本質。
→ 制度的な競争政策・監視の欠如がインフレを助長。
🧩 4. 労働市場・賃金主導説
💡 論理構成
失業率が下がり、賃金が上昇すると企業がコスト転嫁。
インフレ期待が上昇し、賃金-物価スパイラルに。
よって、金融引き締めで労働市場を冷やすべき。
📊 ブライスの検証
米国のデータでは賃金上昇がインフレに先行していない。
多くのケースで、物価上昇→賃金遅行という関係。
労働組合が弱体化した今日では、スパイラルは構造的に起こりにくい。
⚖️ ブライスの評価
1970年代型の「賃金インフレ論」は現在には当てはまらない。
むしろ「賃金が物価に追いつかない=実質賃金低下」という逆スパイラルが現実。
よって、インフレの“被害者”は労働者層だと結論。
🧩 5. MMT(現代貨幣理論)との関係
💡 MMTの立場
政府は自国通貨を発行できる限り「財政制約」はない。
インフレは財政赤字ではなく「実物供給制約」で生じる。
したがって、政策は「供給キャパシティの拡大」に焦点を当てるべき。
📊 ブライスの評価
MMTはNKより現実的だが、制度・政治的側面を軽視している。
供給制約だけでなく、「どの階層が価格決定権を持つか」も重要。
つまり、「マネーの量」より「マネーが誰の手にあるか」が本質。
🧩 6. ブライス自身の統合理論:「分配と価格権力の政治経済」
ブライスはこれらを踏まえて、次のような“メタ理論”を提示します:
インフレとは、「経済主体の価格設定力と分配闘争が交差する政治的現象」である。
その骨格:
ショック(パンデミック・戦争)が起きる
→ 供給が制約される
→ 価格決定権を持つ企業が“機会的”に価格を上げる
→ 賃金は上がらず、利益シェアが上昇
→ 分配構造が労働→資本へシフト
→ それを是正する政策(所得再分配・協調的価格設定)こそが必要
💬 7. 政策的含意
ブライスが示唆する「インフレ対策」は、従来の金利操作とは全く異なります。
NK的対策ブライス的対策金利引き上げで需要を冷やす価格決定権の集中を是正する中央銀行主導所得・価格政策を含む「社会的合意」マクロ的均衡回復分配構造の調整・協調的制度再設計労働市場を冷却労働者購買力を維持しつつ価格安定
→ 要するに、ブライスは「金融引き締め」は政治的に偏った(資本に有利な)政策だと見ている。
🔚 まとめ:ブライスの本の価値
この本が「社会科学の教科書のようにすばらしい」と評される理由は:
対立する説明をひとつずつ取り上げ、理論+データで検証している。
自分の立場を最後に提示する(結論ありきではない)。
経済=社会構造と権力関係の反映という一貫した思想が通底している。