まじめな聖書の話。
神様から与えられた旧約聖書の律法(法律にあたるもの)を箇条書きにすると、613個の戒めになる。これは248個の「〜しなさい」という積極的な戒めと、365個の「〜してはいけない」という消極的な戒めに分けられる。
前者は古代の人が骨と臓器の数だと考えていた数、後者は365日、私たちが毎日してはいけないことをしてしまう存在であることを表す数なのだそうだ。まさに体と心を整えるためのルールが、神様から与えられていたことを表している。
自分の体を整えることは、自分自身が安定することにつながる。自分が安定すると、周りの人々との関わりにも余裕が出る。自他共に整えられて過ごしたいものだ。
一致の話、異端は異端として認識して「我々はそういう考え方をしてません(キリスト教を標榜しないでほしいしキリスト教として認めません)」と宣言はするけど、今は教会を挙げて攻撃をしたり迫害したりはしない。かつての歴史の中でそうやって異端と決めつけて暴力の理由に宗教を用いたことを、キリスト教会(主にカトリック)は反省をしているから。
現代において攻撃されているように見えるのは、だいたいカルト化した異端に対してなので、攻撃するというよりも被害にあっている人の訴えを取り上げて非難している、ということが多いと思う。
まじめな聖書の話。
宗教が怖い、と思う一つの要素に「洗脳されそう」というものがあると思う。
プログラムされたロボットみたいに人の自我を奪い、皆が同じことを考える、宗教は人をそのような状態にするための道具とされているのだ、というイメージを持っている人も少なくないだろう。
しかし聖書が語る「一致」とは、決してそのようなものではない。
一人ひとりが違いを認めあい、寛容な心で受け入れ合う時に、本当の一致への道が開かれていくのだ。
そのために必要な相手への愛と忍耐を保っていきたい。
https://kyrie-eleison.net/2025/02/01/match-is-no-brainwashing/
まじめな聖書の話。
誰にでも、誰にも言えない薄暗い気持ちを抱える時もある。それを吐き出す場所だって必要だろう。
でも、自分がそれを作ったとき、吐き出せば吐き出すほど自分の心がすっきりするかと思ったら、逆だった。かえって自分の中に憎しみの言葉が溢れるようになってしまった。
人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものだ。
だからきっとイエスも、「殺すな」という十戒を、「腹を立てたら地獄に落ちる」とさえ拡大解釈して教えたのだ。
私たちから生まれる言葉はいとも簡単に、その言葉を伝えた誰かだけでなく、私たち自身の心さえも変えてしまうものだから。
https://kyrie-eleison.net/2025/01/18/if-you-curse-person-there-are-two-holes/
まじめな聖書の話。
聖書入門講座。なんで福音書って4つもあるの?それぞれの福音書の特徴は?というところをざっくりまとめました。
#今日の聖句
マタイによる福音書 18:20
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
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この聖書の言葉は、「二人または三人」、つまり「集まる」という最少人数で私たちが集うとき、既にそこには神様がおられる、ということの証として聞かれる言葉でもある。
だからそこに、聖書の言葉が語られ、分かち合われるとき、そこに神様が共におられ、神様が私たちに語ってくださっている、ということが信じられていくことになる。
教会という言葉も、ギリシャ語では「エクレシア」=「人の集まり」を意味する言葉から来て……
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます、という日記を書きました。
この記事にも書いたことだけど、マルコ福音書の最初の一文「神の子イエス・キリストの福音の初め」のうち、神の子という言葉は後代の人が付け加えた言葉だと言われている。この言葉を取ると、マルコ福音書が最後の最後まで「イエスとは何者だったのか?」という問いの答えを明らかにしなかった意味がわかる。ヨハネ、エリヤ、預言者、神の子……色んな人が色んな答えを出すが、マルコが描くイエスは正解を示さない。それは読んだ人自身が、その問いに答えを探して欲しい、という目的で書かれたものだったということだ。
キリスト教信仰とは、誰かから与えられるものじゃない。一人ひとりが自由にイエスを受け取っていくことを赦されているのだ。
娘(2歳)、ポケットというものの存在を知ったのでなんでもポケットに詰め込むことを覚えたんだけど、親が気づかないうちに親のポケットに何かしら(紙とか小さなマグネットとか)を滑り込ませるという高度なテクニックをポケットの存在を知ったその日のうちに習得してしまったので、たぶん手品師の才能がある