「伝わらないように言語を産出すること」では不便なので、暫定的に選択的伝達 (selective transmission) という用語を導入することにする。「産出」では焦点がずれていて、「伝達」の方が適切。情報が特定の受け手にだけ届き、他の受け手には理解されないよう意図されているという状況を指すのに「選択的」が最適かは疑問。とりあえずの案として。
これまでを振り返って興味を持ったものに共通点を見出すと、伝わらないように言語を産出すること。
最近また取り組んでいるステガノグラフィもその一例。テキストが意味的に無関係なテキストに埋め込まれることで、監視者がその存在に気づかない。ただし、これは人間だけでは実現が難しく、計算機の助けを要するためやや特殊。
隠語にも昔から関心はあるが、研究としては手を出せていない。潜在的な顧客のアクセス機会を最大化しつつ、監視者のアクセス機会を最小化するというタスクはいかにも難しい。以前書いたブログ記事は当時の言語処理技術を前提にしていたが、今なら LLM を活用することで監視側が圧倒的に有利になりそう。https://rekken.hatenablog.com/entry/20090610/1244559600
伝わらないように言語を産出することは、決して怪しげな話に限らない。言語変化、特に基礎語彙の変化においても、その一因ではないかと疑っている。音韻変化は話者が自覚しないうちに起こるらしいが、基礎語彙は生活上必要不可欠な語彙。変化に話者が気づいてそうだし、仮に無意識であったとしても、競合語の使用頻度が変化し、いわゆる S 字カーブを描く場合、その運動量が何に由来するのかという問いになる。結果として、意識的な語選択と同じ要因に行き着く可能性がある。その要因とは、若者が上の世代に伝わらないように語を使うことであり、それがそのまま年齢を重ねるにつれて定着する、という話があったはず。たしか Labov あたりに。
Discussion
選択的伝達に関する既存研究として犬笛 (dog whistle) 検出があるのだが、これがまたひどいことになっている。
https://aclanthology.org/2023.acl-long.845/
https://aclanthology.org/2024.acl-long.675/
犬笛とは、表向きは無害に見えつつ、特定の集団にだけ (有害な) 意図が伝わるよう設計された言語表現とされている。しかし、そもそもこの語自体が価値判断を含む。「私は犬笛を吹いた」などとは言わない。もっぱら送信者の敵がその発言を非難する文脈で使われる。「犬笛が聞こえているのは敵だけ」と揶揄される所以。
仮に送信者が本当に犬笛を意図していたとして、受信者がその意図を読み取ったかという観点が完全に欠落しており、コミュニケーション研究としてはいびつ。ひたすら敵の発言を検閲することだけに熱意が注がれている。
技術的には語義曖昧性解消 (word sense disambiguation, WSD) として定式化されている。事前に選定された用語リストに含まれる用語が犬笛か否かを分類する。対象を恣意的に選定し、異論可能性を欠いた (uncontestable な) システムを作るという点で、まさに以前議論したバイアス研究の駄目さの典型となっている。
その用語リストを見ると、本気で思想検閲をやろうとしていることが伝わってくる。例えば、TERF を根絶したいという強い意志がにじみ出ている。
https://dogwhistles.allen.ai/glossary
このリストに普遍的な根拠があるのか? 例えば、右派が犬笛非難をミラーリングして、diversity という語は anti-white racism の犬笛だと主張していたりする。この主張を退ける価値中立的な規準は存在するのか? ないだろう。結局のところ、自分の党派がこれらの政治的主張を支持しているという話でしかない。
AI2 の Glossary of Dogwhistles は in-group カテゴリに anti-liberal があるのに anti-conservative がない。さすがに露骨すぎる。
ChatGPT に anti-conservative の犬笛を考えてもらったら、以下が提案された。
- Flyover country
- Thoughts and prayers
- Fox News viewer
- Christofascist / Christian nationalist
- Old white men
Christofascist はあからさま過ぎて、out-group が受け取る literal meaning なんてそもそも存在しないように思うが、それを言うなら収録されている social justice warrior も同じ。制作者は検閲したいだけでコミュニケーションには興味がないことがよく分かる。