そんな祖母だったが、東京大空襲の折に浅草にいたことは事実であり、子供の頃から何度もどんなふうに、どんな音でB29が飛んできたか、焼夷弾がどんなふうに落ちてきて、どんな風に家を焼き、祖母がどんなふうに火の海を逃げ惑ったかは繰り返し語ってくれた。

戦争の話は一切しなかった祖父と違い、その経験は自分の中で本当に貴重だったと今では思っている。

10年ほど前に友人と浅草のあるおでん屋に行ったら東京大空襲の写真が店内に貼ってあった。僕は祖母の話を思い出し、つい店のマスターと東京大空襲の話で夢中になって話し込んでしまい(経験もしていないのに!)、隣にいた彼女をすっかり怒らせてしまった経験がある。

あの地獄を語ってくれた祖母のおかげで自分は経験したかのように夜空を飛び交うB29と焼夷弾の映像を脳裏にとどめている。

実はあれが原爆と並んで人類史に残る大虐殺であったこと、カーチスルメイの名前、そんな知識への関心へとつながったのも祖母のおかげである。

Reply to this note

Please Login to reply.

Discussion

「祖母と浅草シリーズ」もう少し書く。

実は長い間、僕の本籍はずっと浅草だった。空襲で祖父母は浅草を焼け出されて八王子に移り住んだけど、本籍はずっと浅草から動かさなかった。僕はややこしい家で祖父母の籍に入ったので、浅草の当時の住所が僕の本籍だったのだ。だから空襲時に祖母たちがどこに住んでいたかはわかっていた。

あるとき僕は、その住所を尋ねて今の姿を祖母に見せたいと思いついた。その頃は祖母もまだ少し歩けたから、聞いてみたら行ってみたいという。当時祖母は浅草で美容製品関係の卸売店をしていたのだが、隣家とは家族ぐるみでつきあいがあり、浅草を出た祖母とは違い今でもその場所に住んでいるらしいという。

問題なのは、その本籍の住所が旧地番だったことだった。浅草の田原町付近なのだが焼け野原になって長い時間の中でその姿を一変させていることはもちろん、現在のどの場所が祖母の住んでいた地点なのか調べることは簡単ではなかった。ネットで旧地番と新地番の対照表を見て特定しようとしたが、簡単にはいかなかった。あとは祖母の記憶でしかなかった。続